結婚5周年のその次の年
いつのまにか一年たってしまって
まさか世界情勢は悪化しているという
一番好きなお店でお寿司デリバリーして一番好きなスパークリングあけてワンボトル自分で飲んでうちの犬と遠出して、最高の記念日でした
記念日をまだ祝っているという現実以外は
知ってても知らずとも付き合ってくれた全ての人々と、うちの茶色いふわふわに感謝しています。thank you for being here, and keeping me sane. Thank you.
結婚5周年
離婚してるけどね。
いつもの通り、あの婚姻はすでに離婚により取り消されたのはわかっているものの、
気持ちの問題により素直に有給とってみました。
といってもすることは特になく、平日ですので自然にイベントが発生することもなく、かといって自ら結婚記念日だから飲もうと他人にいい出したりしたらホラーになってしまうので、なんとなく犬のトリミングをその日に入れてみた(仕事しないの確実な日ですので)くらいで、そんな感じで陽はもう傾きはじめています。
人生になんの後悔もないし今の生活にたどり着いた自分はなんて上出来なんだろうって思うけど、それでも、欲を言えばあの麻薬みたいな日々がもう少しだけでも長く続いてたらよかったのになあって
仮に5周年を祝うとしたらどんなだったんだろうなあ、はさすがに遠過ぎてもうフィクションにしか思えないけど、どんな映画より小説よりそのフィクションを読んでみたかった人生だったね
3時間のトリミングだけど犬が大暴れしてて5時間かかってるらしく、
犬のいない5時間分の我が家こそしんとしててフィクションのよう
トムヤムクンカップヌードル
あの子の1番好きな味
一緒にいた時はわからなかった味
木村花ちゃんのことが好きだった
彼女のことはテラスハウスで知りました。もちろん彼女はわたしのことは知らない。視聴者と演者の関係でしかないから、人となりなんてなにも知らない。つまり、限りなく、「知らない人」。でもわたしは、Netflixのサービスによって配信されていた彼女のプロフィール・行動・言動・その他外形的部分に興味をもち、毎週に近い頻度で彼女のテラスハウスでの生活のアップデートを取り入れていました。
とはいえ決して彼女に共感していたわけではなく、むしろどちらかというと自分とはかなり異なった存在だと思っていて、だからこそわたしに思いつかないことを言っていたりわたしにできないことをしていたりする彼女を、わたしにないものをたくさん持っていた彼女をまぶしいような気持ちで眺めていました。これはテレビ関係なくわたし個人のタイプの問題なのかもしれないけど、自分とちがう感性をもってるひと、知らないことを発信しているひとにより興味を持つ傾向があって、それはシンプルにわたしからの一方行の興味で、だから彼女の恋を応援するとか、彼女の退去を願うとか、そんな本人自体に直結する感情は一度も抱いたことはありませんでした。ただただ、誰かの書いた本を読むように、誰かの歌った曲を聴くように、彼女の見せてくれる"生活"のビジョンに興味を持って、それを視聴していました。あとインスタもフォローしてた。純粋に見た目がかわいくてもっと見たかったから。これは一時的なもので、そのうち彼女が発信をやめるか、わたしが受信をやめるかのどちらかによって見られなくなって/見なくなってしまうことなんてわかってたけど、こんな理由でそうなるなんて考えもしなかった。
テラスハウスはわたしにとってすこし特別な番組でした。副音声をつけることで他人とテレビを見ているような環境を生み出すことができて、同じコンテンツに対して多数の人間の視点を同時に取り込みながら色々な人物の価値観にふれることができて、画面を注視しなくてもストーリーについていけて、暴力とか犯罪とかない。こんなに日常によりそった番組を、わたしは他に見つけられていません。
自分の家庭内に問題があった時期を、わたしはテラスハウスと共に過ごしました。家事の合間に毎日毎日観てたから、まるで毎日毎日スタジオメンバーと一緒にテレビ観てるみたいだった。長すぎるとか中身ないとか、世間ではそんな意見がたくさんあるけど、肯定も否定もしたいとは思わないけど、あのときのわたしがあのときの生活に取り込めたコンテンツはテラスハウスだけで、わたしが自分の暮らしの中で縋って頼っていたのはこのバランスでできたテラスハウスだった。だからわたしからは、テラスハウスには感謝しかありません。
あの日から何日も経ったいまもなにを書いてもなんだかなんにもうまく表現できない。いっそ他人の感想に乗っかってしまうとこういう気持ち(めちゃくちゃ共感した)。もちろん、このTwitterアカウントさんも全く見ず知らずの方です。
わたしはテラスハウスも、花ちゃんも、テラスハウスの花ちゃんも好きだった。きっとこれからもずっとわたしにとってすこし特別な存在であり続けると思う。こんな形でわたしの生活からテラスハウスが、世界から花ちゃんがなくなってしまったことがとてもとてもかなしい。
愛されなくなって3年
そろそろ、それくらいの時間がたつんだなあって、
そんなのを数えてしまってる自分のことは嫌になるけどでも
これが紛れもない現実
数えてしまってるそれを認知している自分のことはどうしようもないので、友人たちと鴨の丸焼きを食べた。友人たちはわたしにやさしいので、焼酎を一本開けてくれたりする。
友人たちのそれぞれがそれぞれの人生を歩んでいるのを眩しいような、心配なような、一緒に過ごしたいなって少し未練が残るけどそれは叶わないってちゃんとわかってる。それまでおかしいくらいにわたしを愛し続けていた元夫がそれをやめて3年が経って、わたしが彼を愛するのをやめることにしてから2年がたって、彼がいま現在どこでなにを思ってるかはもはや、私の人生とは全く関係なくなっている。
3年たってもわたしは彼にキャンセルされたままの状態でいるとは思わなかったし、まさかそこまで元夫のことを好きだったんだなっていま改めてそう思う。もちろんそれはどこまでも誰にとっても無駄な感情だって誰よりもよくわかってる。
ものすごい罰当たりなこと言います
この状態がもう少し続くといいなあって、思ってしまっている自分がいます。
もちろん。死人病人が出て経済打撃著しくて世界中がバラバラでボロボロなのがいいと思ってるわけではありません。私自身の勤め先はコロナに相当直接影響をうけるような業種だし、両親は海外にいるのでなにかあってもどうすることもできない。みんなが多少なりともうきうきした気持ちで迎えた2020年がまさか感染者数と死者数の世界大会になってしまうなんて、こんなに悲しいことは決してあってはならない。あってはならなかった。
わたしが今回話したいのはあくまでも今回のcovid19を起源とした限定的な事象のことで、それはわたしが現在の状況を個人的かつ総合的にポジティブに受け止めることができる環境にある幸運さに基づいています。
前例を最重要視する堅い業種にもかかわらず、途方もないスピードで在宅勤務の環境が構築されたこと。今後の見通しが全世界規模で立たなくなったため、予定という概念自体がなくなったこと。外出がよしとされなくなったため、他人に見られることなく家で寝て起きて働いて食べてそれで1日を終わらせることができること。犬を毎日抱きながらお金を稼ぐこともできること。物理的なおつきあいが「一時的に」「完全に」ストップしたこと。
一呼吸つけたような気がした。社会から、人生から、その他の色々なほぼ全ての要素から。
(自分も含めて)一方から見ると理不尽な行為、いわゆる悪意がこの世の中からなくなることなんてないんだろうけど、不確定要素を受け止めて、余白を取り入れて、ただ持続性にのみフォーカスしたいまの状態を、わたしの日々の生活を愛しています。