犬と家とバツイチ

犬を育てています。人生と暮らしと結婚生活の弔いについて

木村花ちゃんのことが好きだった

彼女のことはテラスハウスで知りました。もちろん彼女はわたしのことは知らない。視聴者と演者の関係でしかないから、人となりなんてなにも知らない。つまり、限りなく、「知らない人」。でもわたしは、Netflixのサービスによって配信されていた彼女のプロフィール・行動・言動・その他外形的部分に興味をもち、毎週に近い頻度で彼女のテラスハウスでの生活のアップデートを取り入れていました。

 

とはいえ決して彼女に共感していたわけではなく、むしろどちらかというと自分とはかなり異なった存在だと思っていて、だからこそわたしに思いつかないことを言っていたりわたしにできないことをしていたりする彼女を、わたしにないものをたくさん持っていた彼女をまぶしいような気持ちで眺めていました。これはテレビ関係なくわたし個人のタイプの問題なのかもしれないけど、自分とちがう感性をもってるひと、知らないことを発信しているひとにより興味を持つ傾向があって、それはシンプルにわたしからの一方行の興味で、だから彼女の恋を応援するとか、彼女の退去を願うとか、そんな本人自体に直結する感情は一度も抱いたことはありませんでした。ただただ、誰かの書いた本を読むように、誰かの歌った曲を聴くように、彼女の見せてくれる"生活"のビジョンに興味を持って、それを視聴していました。あとインスタもフォローしてた。純粋に見た目がかわいくてもっと見たかったから。これは一時的なもので、そのうち彼女が発信をやめるか、わたしが受信をやめるかのどちらかによって見られなくなって/見なくなってしまうことなんてわかってたけど、こんな理由でそうなるなんて考えもしなかった。

 

テラスハウスはわたしにとってすこし特別な番組でした。副音声をつけることで他人とテレビを見ているような環境を生み出すことができて、同じコンテンツに対して多数の人間の視点を同時に取り込みながら色々な人物の価値観にふれることができて、画面を注視しなくてもストーリーについていけて、暴力とか犯罪とかない。こんなに日常によりそった番組を、わたしは他に見つけられていません。

 

自分の家庭内に問題があった時期を、わたしはテラスハウスと共に過ごしました。家事の合間に毎日毎日観てたから、まるで毎日毎日スタジオメンバーと一緒にテレビ観てるみたいだった。長すぎるとか中身ないとか、世間ではそんな意見がたくさんあるけど、肯定も否定もしたいとは思わないけど、あのときのわたしがあのときの生活に取り込めたコンテンツはテラスハウスだけで、わたしが自分の暮らしの中で縋って頼っていたのはこのバランスでできたテラスハウスだった。だからわたしからは、テラスハウスには感謝しかありません。

 

あの日から何日も経ったいまもなにを書いてもなんだかなんにもうまく表現できない。いっそ他人の感想に乗っかってしまうとこういう気持ち(めちゃくちゃ共感した)。もちろん、このTwitterアカウントさんも全く見ず知らずの方です。

 

f:id:flavamaro:20200613174919j:image

 

わたしはテラスハウスも、花ちゃんも、テラスハウスの花ちゃんも好きだった。きっとこれからもずっとわたしにとってすこし特別な存在であり続けると思う。こんな形でわたしの生活からテラスハウスが、世界から花ちゃんがなくなってしまったことがとてもとてもかなしい。